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ハレの日製作所は家紋の由来についても調査します。

 

前回は、家紋っていったい何? と 家紋の由来と歴史についてお話をしました。

今回は、武家の家紋についてお話します。

ウィキペディアでは、2018年で、2万種ほどの家紋があるとのことですがその数が増えたのが、私が、長らく勉強した太平記の時代、すなわち南北朝時代とのことです。確かに、物語を読み進めていくと、敵と味方の入れ替わりがあり、どちら側なのかわからなくなったことも!ページを何度も戻した覚えがあります。

では、武家の家紋の由来から・・・どうぞ!

 

 

武家の家紋の由来

武家の家紋はいつから?

牛車の装飾からはじまった公家の家紋が成立してから、すぐに武家にも家紋が広がったのかというと、そんなことはありませんでした。武家の家紋が生まれた時期にも様々な説がありますが、一般的には鎌倉時代初期の源頼朝の時代には武家の家紋はまだなく、これ以降に起こったものではないかといわれているのです。

武家は公家と違い、戦うことが生業でしたので、家紋が広がる理由も「戦」にまつわる合理的な理由からでした。戦では敵と見方を区別する必要があるため、その目印として家紋が広がっていったといわれているのです。

敵味方を区別する最もわかりやすい目印は合戦で掲げる「旗の色」でした。源平合戦では源氏は白旗、平氏は紅(赤)旗で敵と味方を見分けていて、これは運動会の紅白の色分けの起源ともいわれています。このように当初は紅白だけで区別していたものの、それだけではどの武将がどこにいるのかがわからず、さらに武勲を立てても周囲に紛れてしまうと困る!ということで旗や陣幕に「印」をつけるようになったのが武家の家紋のはじまりといわれているのです。さらに武家の家紋のはじまり方にも3つの由来があります。

1.旗指物を由来とするもの

今風にいえば、旗指物(はたさしもの)とは「のぼり旗」のことで、上の屏風絵をみてわかるとおり武士は戦のときは必ず目印として旗を持参していました。旗指物をルーツとした家紋としては、武蔵国の兒玉党の軍配団扇が最も有名です。兒玉党が旗に団扇(うちわ)を描き団扇旗と称しての自分の目印としたことに始まり、それに倣って自分の家の目印として旗に目印を入れた武家が多くいたとされ、さらに旗だけではなく兜や鎧の袖にも自家の紋を描き、自分の存在を明らかにするものとして活用されました。後にこの旗印が家の象徴(シンボル)として家紋になったということなのです。

2.陣幕を由来とするもの

戦に使う旗だけではなく、陣幕に染め出す幕紋をルーツとする家紋も存在します。代表的なものは新田氏の大中黒や足利氏の二引両で、わかりやすいシンプルなデザインが特徴です。武士は陣屋の中で戦の戦術を練っていたことから、陣幕も武家を象徴する神聖なものと考えられていました。武士にとって陣は戦を象徴するとても大切なものだったことから、幕紋を起源とする家紋が存在することにも頷けるというものです。

3.衣服の文様を由来とするもの

衣服の文様を家紋としたものには佐々木氏の目結紋があります。佐々木氏の武具である鎧直垂(よろいひたたれ)には三目結が縫われていたといわれており、後にこれが家紋としても使われるようになったというものです。この由来に関しては、公家の家紋と共通するものがあります。

こうして戦の「目印」としてはじまった武家のシンボルとしての家紋は、功のあった家臣に下賜(かし)されるほどの価値あるものとして広く認められるようになっていきました。昔の武士が戦で使っていた家紋は、身分・所属を表すとともに軍の団結を象徴するものだったため、現代の会社員がつける社章やユニフォームの意味を持っていたともいえます。

公家と武家の家紋の違いとは?

このように同じ家紋でも、公家と武家では由来とその目的が異なることがわかると思います。その文様についても、公家では周囲に権威を示すために華美な装飾のものが好まれた一方、武家では必要性の関係から合戦でもわかりやすい実用的でシンプルなものが好まれるという違いがありました。

家紋の種類の違い

そもそも家紋は「苗字」を表すものでしたが、南北朝・戦国時代になると、かつて同じ家紋を用いていた同族同士で戦をすることも多くなっていきました。そうすると、同じ家紋だった武家の一方が家紋を変えなければいけなくなり、これにより武家の家紋の種類は自然と増えていくことになります。家格が固定されていた公家の家紋よりも多くの種類が発生することになったのです。

公家の家紋は武家より先に発生したものの、公家は権威を示したり、自分の所有物に目印をつける以外に大きな意味を持ちませんでした。一方で、武家の家紋は戦での必要性が明確に存在し、用途に合わせた合理的な理由をもって広まり発達していっていたことがわかります。

豊臣秀吉による家紋の規制

戦国時代が終わり、家紋が権威を持つ中、豊臣秀吉は天正19年(1591)に菊桐紋禁止の規制を出すほどになります。鎌倉時代初期の後鳥羽天皇の時代から皇室の象徴であった「十六葉八重菊(菊紋)」はもちろんのこと、桐紋である「五七桐(桐紋)」は菊紋の替紋としてとても権威のある紋だったため、使用できるものを制限したのです。

しかし豊臣秀吉の時代が終わり、徳川幕府が統治する戦のない平和な江戸時代が到来すると、武家の家紋は戦での実用性が求められない権威の象徴となります。さらに江戸幕府のもとでは家紋の規制は緩いものとなり庶民・町民にも家紋が広がっていくことになります。

ここまで読んでいただきありがとうございました。次回は江戸時代の家紋についてお話します。

 

貼り付け元 <https://ka-ju.co.jp/column/origin_of_family_crest

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