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“ハレの日パーク”

ハレの日マーク

ハレの日製作所は家紋の由来についても調査します。

前回は、武家の家紋と戦国時代までの家紋についてお話しました。

今回は江戸時代の家紋についてお話をいたします。

家紋が最も栄えた江戸時代

天下をとった徳川家康は、当時の天皇である後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から権威ある「菊桐紋」を下賜(かし)されることを辞退しました。その代わりに葵紋を独占することで、相対的に葵の権威を高める試みを始めます。その結果、この頃から元々葵紋を使用していた家も徳川将軍に遠慮して葵紋を使用しなくなったといいます。

豊臣秀吉の時代に比べて、江戸時代初期の徳川幕府の家紋に対する規制はとても緩やかなもので、苗字の公称は厳しく規制した一方で、家紋をはじめとする葵紋の使用には明確な規制を敷いていませんでした。しかしその後年月が経つと、町人が葵紋を用いた売物を勝手に作ったり、葵の紋服を着用して悪さをする浪人が現れたりしたため、江戸幕府成立から100年以上経った享保年間(1716-1735)に厳しい葵紋使用禁止令が出されることになりました。

葵紋は徳川家の権威の象徴へ

規制により明確に庶民は葵紋を使うことができなくなり、江戸時代の将軍家徳川葵をはじめとする葵紋は、皇室の菊紋・桐紋をはるかに凌ぐ権威を持つようになりました。

江戸時代の家紋はまさに“武家の権威の象徴”となり、まさに水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか!」「ハハ~っ(と言って一堂ひれ伏す)」となるような状況になります。将軍である徳川家だけでなく、地方の大名にとっても家紋は格式を表すシンボルとなって、羽織からご老公様の印籠といった調度品・衣服にまで家紋が印されるようになっていきました。

大名行列でも家紋は重要な役割

江戸時代に盛んに行われた参勤交代が行われる場面では、諸大名が江戸に来る時や登城をする際に誰なのかを知る必要があり、そこで家紋が活用されました。一行の衣服や籠等には家紋があしらわれ、家紋から一目で誰なのか見分けられるようにしていたのです。家格により礼儀作法が異なったようで、参勤交代の途中の道で遭遇した場合に失礼な対応をしないよう、予め家紋を知っておく必要がありました。その家臣や行列の先頭には必ずといっていいほど諸大名の家紋を熟知したものが配置されていたといわれています。

家紋から誰かを識別する下座見役

さらに幕府においても大手門に下座見役(げざみやく)という役人をおいて、家紋を見ただけでどの大名・役人が登城してきたのかを確認できるようにしていました。当時の役人にとって、諸大名の家紋に精通しているのは公務上絶対必要なスキルでした。現代でも組織の中に入ると上層部の顔と名前を覚える必要があるように、当時は家紋を覚える必要があったということになります。

また都市部の町人にとっても、武士の格式を瞬時に見極めて、それなりの対応をしなければ大変なことになります。そのために諸大名の家紋をまとめた大名紋盡(だいみょうもんづくし)という書物をはじめ、「武鑑」という大名や幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の本が年毎に発行され、明治に至るまで刊行されていました。

江戸時代は現代と異なり、全ての人が文字を読めるわけではありませんでした。そのため、名刺代わりに家紋が用いる方が全ての庶民が識別できて、権威の象徴として示すには合理的なものだったのです。

 

ここまで読んでいただきましてありがとうございます。次回は庶民へ拡がる家紋についてお話をしますね。

 

 

引用元  <https://ka-ju.co.jp/column/origin_of_family_crest>

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