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“ハレの日パーク”

ハレの日マーク

ハレの日製作所は家系図の制作もします。

前回まで「家紋」のお話をしました。

今回はちょっと趣向を変えて、歴史上の人物の家系についてお話します。

それも織田信長。NHK大河ドラマ、「麒麟がくる」では織田信長を討った明智光秀が主人公。織田信長も既に登場していますが、今までの勇猛果敢なイメージとは違った角度で捉えていて面白いです。

 

さてそこで今回は、織田信長の足跡と家系図から見えてくるものをご紹介してゆきましょう。家系図を広げる前に、まずは織田信長とはどんなことをした人なのか、振り返っていきたいと思いますが、その波乱に満ちた人生と戦績、功績のすべてを追ってしまうと、軽く10回連続シリーズといった長さになってしまいますので、今回は入門編としてさらりとご紹介しましょう。

なお、信長に関しては新説・諸説が入り乱れていますが、ここでは一般的に知られている、教科書にも書かれているような内容でお届けします。それでは多く人を虜にしてやまない、織田信長の家系図の世界を見ていきましょう。彼の家系図もまた、とても興味深いことがたくさん詰まっています。

1.織田信長のプロフィール

ここでは織田信長の波乱に満ちたプロフィールを見ていきましょう。織田信長は、天文3(1534)年に尾張国(愛知県西部)で生まれました。父は尾張守護代家に仕えた織田信秀、母は土田御前です。18歳の時に父を亡くし織田家の家督を継ぎました。24歳の時には、織田家当主の座を狙って再三裏切り行為を画策していた弟の信行を呼び出して謀殺しています。

その3年後の1560年、信長27歳の時に日本三大奇襲の一つとされる「桶狭間の戦い」が起ります。上洛中の織田軍が、5倍の兵力を持つ駿河の今川軍に対して迂回奇襲し勝利したというものですが、近年の研究によると正面攻撃だったのではないかという具合に、諸説が浮上しているようです。

ほかにも少年期は「大うつけ」と言われるほど破天荒な性格で、それを諌めるために家庭教師だった平出政秀が切腹してしまったというエピソードがあったともされています。

どちらにせよ、織田信長の破天荒さと、戦略家としていかに優秀であったかを物語るエピソードだと言えるでしょう.

1.1 30歳以降の足取り

30歳の時に本拠地を小牧山城に、さらに34歳で岐阜城に移しています。35歳の時には足利15代将軍に義昭を奉じ、護衛を行います。岐阜城から京都の道筋を確保するためにその間の地域を治めていた浅井長政に、妹・お市の方を嫁がせました。が、織田・浅井はやがて関係がこじれてしまい「姉川の戦い」へと発展して、織田・徳川軍は浅井・朝倉(越前)軍に勝利。

さらには、浅井・朝倉と組んだ比叡山延暦寺を焼き討ちにするも、仲違いした足利義昭、そこに武田信玄が加わって、信長討伐への包囲網が一層強化されるようになりました。信玄の死で武田軍が撤退すると、信長は上洛して義昭を追い込み「今堅田・石山の戦い」「二条城の戦い」で幕府を制し、1573年7月ついに室町幕府が滅びることになります。

すぐさま朝倉義景、浅井久政・長政を討伐。そして1575年に武田勝頼を「長篠の戦い」で制しました。翌1576年には安土城を築き、その後の戦いぶりや勢力拡大もあって、最強の武将として世に君臨する中、家臣であった明智光秀が反乱を起こし、日本史3大謎のひとつとされる「本能寺の変」で命を落とすことになります。1582年6月2日未明、信長49歳の時でした。

織田信長の波乱で、破天荒な人生はこのように多くの伝説を残して終わったのでした。しかしこのようなことがどうして判ったたのでしょうか?その秘密の一つに、家系図の存在がありました。

この続きは次回のお楽しみに・・・。

引用 : https://ka-ju.co.jp/column/oda_nobunaga

 

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