ブログ

“ハレの日パーク”

ハレの日マーク

ハレの日製作所は「名字の由来」についての調査もします。

名字の由来について興味ありませんか?ご先祖様から引き継がれている名字。名字の由来がわかったら自分のルーツまで辿れることがあります。うまくすれば1000年前までも。。。

 

先日知り合いの社長さんに、動画の小冊子と家系図のパンフレットをお渡ししました。その社長さんに今朝お目にかかったところ、「あのパンフレットいいですね!」と言われたので、てっきり動画小冊子かと思ったら、家系図の方でした・・・。

その社長もNHKのファミリーヒストリーが大好きで、自分の家系に興味があるとのことでした。

その社長さんはまだ35歳くらい。何故か若い社長さんの方が興味を持ってくれています。

あて、今回は2回目。平安時代の名字からお話を進めます。

 

名字の由来調査のお問い合わせはこちらまで

 

2 名字のはじまりは平安時代後期

では「名字」に通じるものはいつから出てきたのかというと、平安時代の終盤に名字が生まれることになります。公家(くげ)と呼ばれる貴族の名字と、武士の名字とでルーツが異なりますが、どちらも当時の時代の必要性から自然発生的に生まれることになります。

2.1 公家(貴族)の名字のはじまり

増えすぎた藤原の氏族は、自分たちの屋敷のある京都の地名等から家名(九条・近衛・鷹司・二条・一条等)で区別されるようになり、いつからか自らもその呼び名を名乗るようになりました。その後他の公家(貴族)である源氏、平氏、橘氏にも同様に広がっていき、平安時代の終わりになると、その通称としての「家名」が呼び方として定着しました。

公家(貴族)の名字は「家名・居住地」がはじまり

2.2 武士の名字のはじまり

平安時代の終わりになると、荘園といわれる貴族所有の農地を警護するための武士、地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです

武士の名字は「領地の名前」がはじまり

2.3 鎌倉・室町時代の苗字

鎌倉時代になると、名字は公家や武家などの特権だと意識され始め、幕府も農民の名字を禁止する政策をとります。しかし、室町時代になると、農民の一揆をはじめとする下剋上(げこくじょう)が相次ぐようになり、幕府の力が弱体化し、農民も武士に対して影響力を持つようになってきていました。

そんな時代の中で、武士も農民との関係を模索し、中には農民に対して自分の名字を与える武士も出てくることになりました。このようにして、幕府が農民の名字を禁止する政策は失敗に終わることになったのです。

最初は自由に誰でも名字を名乗れた

上のように姓を同じくする公家や武士から名字は始まりました。その後、①貴族の「家名」と②武士の「名字」は、「名字」として統合され、室町時代になると農民階層にまで広がっていきました。

このように歴史の視点でみると、大きな「氏」の集団から「姓」で区別していたものの区別がつかなくなり、出自を同じくする人達の間で「家」を区別する名称として「名字」が定着したということになります。姓(かばね)は天皇から授かるもので勝手に変えることは許されなかった一方、自分で自由に決められる「名字」は使いやすく、広がっていきやすかったのです。

現代でも「横浜の伯母さん」「金沢のおじいちゃん」等と呼んで親戚を区別することも多いと思います。今も昔も、土地や場所が要素になっている点については同じだったということになります。

2.4 安土桃山時代の苗字

戦国時代から安土桃山時代になると、天下を統一した豊臣秀吉が「刀狩り」や「太閤検地」に代表される武士と農民の身分の分離政策(兵農分離)を進めます。この頃になると幕府の影響力が強まり、「苗字を名乗ること」についても支配階級の特権と意識されるようになり、庶民は次第に苗字を公称することを自粛するようになってきます。

2.5 江戸時代の苗字

徳川幕府の江戸時代になると、苗字が身分証明にさらに利用されることになり、1801年(享和元年)の苗字帯刀の禁令が出されます。これがいわゆる「苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました。当時の江戸時代の特権階級の名字は1万種程度だったといわれています。

商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません。

そのため、公的な帳面である宗門人別改帳には庶民の苗字は書かれなかったものの、私的なものである寺の過去帳や墓碑には庶民の苗字が記載されることもあったといいます。つまり江戸時代でも庶民でも非公式に苗字を持ち、私的に名乗っていたということなのです。

氏と姓と名字の例(織田信長の場合)

あの織田信長の場合、「平朝臣織田三郎信長(たいらのあそんおださぶろうのぶなが)」という正式な名前を持っていました。この時代の公家や武士は出世するほど名前が長くなっていったのです。これに官名である「上総介(かずさのすけ)」を入れて、呼称するときもあります。

<名前の成り立ち>

  1. 一族を表す「氏(うじ)」
  2. 身分や地位を表す「姓(かばね)」
  3. 自分の家(直系血族の集団)を表す「名字(みょうじ)」
  4. 個人の通称名を表す「字(あざな)」
  5. 個人の本名を表す「諱(いみな)」

 

この組み合わせでお互いを識別していました。こう並べてみると、最初から本名(諱)で呼びあえばいいのでは?と思うかもしれませんが、当時の諱(いみな)は、生前に呼ぶことは親などの親しい人を除いて非常に失礼なこととされていました。そのため、「信長様」等と呼ぶことは実際にはあってはならず、個人で区別のつけやすい通称名である「字(あざな)」も持っていたというわけです。

昔だけではなく今でも、初対面の人や目上の人を名前で呼ぶと、馴れ馴れしい・無礼と思われるに違いありません。形を変えながら、日本人のマナーは今でも引き継がれているということなのでしょう。

 

次回は明治維新以後の日本人のお名前についてです。こうご期待!

引用元

名字の歴史と由来。自分の名字はいつから始まったのか? | 家系図作成の家樹-Kaju- (ka-ju.co.jp)

名前の由来

お問い合わせ

メールでお問い合わせ