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“ハレの日パーク”

ハレの日マーク

修学旅行はどこに行ったか?

そんな質問を、とある勉強会で受けました。

 

「中高一貫教育だったので、高校の時は京都で、中学の時は水戸」と答えたのですが、その場でも「えっ?なぜ中学で水戸?」と・・・。

これを読んでおられる方も、「エッ?東京の中学なのになぜ水戸なの?」と思われることでしょう。

そうなのです! 15歳、中学3年生の頃、私自身も友人達も、「何故、水戸に納豆食べにいくの~~~?」と不満タラタラでした。

当時の私は、納豆が苦手で、食事も期待できず、東京のほとんどの中学校の修学旅行は京都に行けるのに・・・と他校をうらやましがったものです。

 

でも、その時の修学旅行の思い出は、なんといっても偕楽園の梅!

いやいや、季節は初夏だったのです。梅は咲いていません。

私たち中3トリオ(仲のいい3人組)は、思いっきり偕楽園の庭を飛びはね、キャッキャキャッキャ言って走り回り、「この梅・・・食べられるよね!」と。

15歳。世間も知らず、常識も知らない私たち3人は、その青い梅をもいで食べたのです!

どんな味だったか・・・それは覚えていませんが、「食べられるね」と言いながら、2~3個食べた思い出が・・・。(偕楽園関係者の方、ごめんなさい。45年前なので許してくれますか?)

帰宅してから、親にえらく怒られたことは書くまでもないのですが・・・。

 

そんなこんなで、楽しい修学旅行だったのですが、なぜ、水戸が修学旅行だったのかはずっと謎でした。

そこで、冒頭の質問の答えのあとに、私がその時、とっさに閃いたのが、母校は渋沢栄一翁が設立に関わっていたと!

私の母校は東京女学館で、伊藤博文内閣総理大臣らが女子教育奨励会を発足し、渋沢栄一翁も資金を出してくださり設立された学校です。栄一の晩年には第五代の東京女学館、館長先生も就任してくださっています。(女学館は校長先生ではなく館長先生と言います)

 

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」を見てらっしゃる方や、渋沢栄一の研究をされておられる方はもうおわかりですよね!

渋沢栄一は、水戸学に傾注していました。渋沢栄一の、「経世済民」「合本主義」の思想は、黄門様の義公以来、藤田幽谷・東湖・会沢正志斎そして烈公まで脈々と受け継がれた「水戸学」から学んだと言われています。

(藤田幽谷・東湖・会沢正志斎については、月刊日本塾で深く学ばせていただきましたので、敢えて自慢げに書いています!)

 

西欧をみてきた伊藤博文も渋沢栄一も女子教育に力をいれるべきとして開校した東京女学館が中学3年生の修学旅行先として、“水戸”を選び、学校創設の頃の精神にも影響をした「水戸学」をその地で学ぶ目的もあって、”水戸”が選ばれたのだと卒業して45年ほど経った今、ようやくわかったということなのです。水戸では偕楽園の他に、烈公が創設した弘道館へももちろん行きました。

 

実は、何故水戸が修学旅行の地かの説明は先生からはなかったと思います。

不真面目な私が覚えていないだけかと思い、同じ学校に通っていた姉妹に聞いても、「知らない」。当時の中3トリオで一緒に梅を食べた1人の友人に聞いても「高校で京都・奈良だから近場で・・・」との答えです。

もし15歳の時・・・学校創設にかかわった渋沢栄一の思想の中心にある水戸学に触れることが目的の修学旅行であると知っていたら、梅をもいで遊んだりせずにもっといろんな考えを巡らせたでしょうに・・・。まぁ後の祭りですがね(苦笑)

ちなみに、学校創設に伊藤博文と渋沢栄一がかかわっていたことは、学生たちにはことあるたびに先生からお話がありました。

 

ということで、東京女学館の中学の修学旅行が水戸であったことを今ようやく誇りに思うようになりました。

これを読んでくださった方で、私よりずっと若い東京女学館の卒業生がおられましたら、中学の修学旅行は水戸に行ったか教えてくださいね。

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