Harenohi Blog
“ハレの日パーク”

ハレの日マーク

安岡正篤さんの名言のなかに、

「一人の人間の死後に残り、思い出となるのは、地位でも財産でも名誉でもない。その人の心・精神・言動である。」

とあります。

私の伯父である晴雄伯父さんが831日に102才で天国へ旅立ちました。見事な一生でありました。

まだ亡くなって日が浅く昨日葬儀を終えたばかりなのですが、思い出されるのは伯父さんといろんな話をしたこと。晩年はユーモアのセンスに磨きがかかり(多少認知症の影響もあったかもしれませんが)とにかくその場にいる人々を笑わせてくれました。行年102才と超高齢ですが、最期まで自宅で過ごし亡くなる直近まで会話もできていました。実際この夏のお盆の時は一緒に食事をし大好きな日本酒もたしなんでいたので他界したと聞き多いに驚いたものです。

伯父は大正6年 伊東市川奈の生まれ。

大正13年の関東大震災では伊東も相当揺れて港町である川奈にも津波が押し寄せました。6才だった伯父は地震発生時、一人竹藪に逃げたそうです。すると家では子どもがいなくなったと血相を変えて探し回り。。。家に戻ると大人達が涙を流して安堵てくれたことを昨日の出来事のように話してくれました。

学生時代は柔道を。身体は小さいのですが、自分より大きい人に勝ったこと、柔道を通して長い付き合いの友達ができたことを目を細めてよく話してくれました。

そして戦争にかり出されたそうです。兵隊が大嫌いだったので軍隊での出世を望ますいつまで経っても一兵卒で上官には繰り返し殴られました。満州に行き帰ってこれたのは運がよかったと。戦地では売春宿もあり、兵隊達は戦地での恐怖から逃れるべくお金を払い通った人が多かった。(伯父さんがそのような宿を利用したかは聞きませんでしたけど)従軍慰安婦問題が叫ばれていたころよく話したのは、そこは兵隊にとっては戦地にいる売春婦と考えていてその女性達の身上には思いをはせる兵隊はいなかったことを語ってました。

戦争から戻り、東京でしばらく私の母と親戚の家で過ごしました。母にとってはとても優しいお兄さんでした。ある時伯父は母に着物を買ってあげたこともあったと母は繰り返し私に話します。

長男なので伊豆に帰り、熱川で配管設備会社を設立。その頃伊豆では旅館の建設が多くあり事業も順調に伸びていきました。

まだ外貨規制があるころ、私の父と初めての海外旅行ヨーロッパに行き、仲良くなった人とドイツでビールを飲みに夜中に出かけたらオーダーが通じず困ったこと、そしてホテルへの帰り道がわからず迷子となり夜通し歩いたという冒険もありました。

その後は幾度となく家族や伯母と海外旅行を楽しんで撮った写真を親戚が集まった場では見せてくれたは思い出を楽しく語りました。

地元では商工会の会長を長年勤め地域の発展に貢献をし、お寺の檀家総代を長らく勤めお寺の発展にも貢献しました。

順風であった人生ですが、92才の時に長男を亡くしました。親より先に逝ってしまったことに激しく嘆き落胆したのですが悲しんでばかりはいられませんでした。亡くなった長男は会社の後継者であったこともあり、後継者死亡により廃業の手続きを一人で行わざるをえませんでした。

そんなことがあり少しづつ認知症を煩いましたが、歯は虫歯になったことがなく全て自分の歯で食事をし、大好きな日本酒をよく飲み酔っ払っては上機嫌となって皆を笑いのうずにまここみました。また新聞を毎日時間をかけて読みニュースもよく観ていたので、政治の話・社会現象やスポーツの話も得意でよく時世について話をし議論もしてました。

頭を使うことが好きでクロスワードパズルやナンバープレース、間違い探しクイズを亡くなる直前までやっていていつも座っている椅子の前には鉛筆が置いてありました。そう!鉛筆も自分で削っていましたわ。

頭の回転も速くとにかく愉快な伯父さんでした。そのような性格なので通ってたデイサービスやショートステイの施設では人気者だったと聞いています。思い出はつきません。

冒頭の安岡さんの名言のとおり、亡くなったあとも残るのは伯父さんとのたくさんの会話そのものです。愉快な人で皆を楽しませてくれた伯父でした。

102才 長生きしてくれたのですがそれでも一日一日もっと一緒にいろんな話をしたかったと思います。でもこれも天の定め。大往生でありハレやかな見事な一生でした。

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