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“ハレの日パーク”

ハレの日マーク

ハレの日製作所は家紋の由来についても調査します

前回は江戸時代の家紋についてお話しました。

江戸幕府は「苗字帯刀」に代表される身分制度は厳格にした一方、家紋の使用には寛容でした。その影響もあって、庶民にとっては江戸時代が家紋の最盛期となります。将軍や大名の家紋に手を出さない限り、伝統的な紋を使っても咎められなかったため、庶民もこぞって家紋を持ち始めました。「苗字」が厳格に身分を表象するものとされたのとは対照的といえます。

公家・武家ではない庶民(農工商)の中でも、家紋は商人や職人にとっては家紋は重要なものになっていきます。町人なども羽織や袴を身につける者が多くなり、武士や役者を真似て家紋を付けるようになります。どんな家紋を付けるのも自由、「紋上絵師(もんうわえし)」と呼ばれる家紋専門のデザイン業まで登場して引っ張りだこだったといわれています。では次に、庶民への家紋の広がりを見ていきましょう。

 

職人の家紋(印・銘)

士農工商の「工」にあたる職人にとって「印・銘」は製品のブランド、品質と責任を示す上でとても重要なものでした。武家に紋が使われるようになってから、特に優秀な工芸品については将軍や幕府から印を与えられることがあり、その印が刻印された工芸品は優れたものとして誰もが認めるものとなっていきます。職人はその印や紋を誇りにし、自家の家紋にも使うようになっていきます。江戸以前から続く老舗には現代まで引き継がれている印も存在しているほどです。

 

商人の家紋

今も昔も、商人にとって大切なものは「屋号」です。商家は自社のブランドである屋号を持ち、屋号を紋にして暖簾(のれん)に染め出しました。そしてその紋がその商家の家紋へとなっていきます。この暖簾に紋を入れる文化は今でも残っていて、東京・日本橋等を歩けばたくさんの暖簾と紋を目にすることができるでしょう。「暖簾分け」や「暖簾が傷つく」等は今でも使われる言葉の一つです。

商家のブランドの象徴である紋は、そのまま現代の企業ロゴに用いられているケースも少なくありません。現代の大企業である住友グループ(菱井桁)や島津製作所(丸に十の字)が有名です。商家のロゴマークである屋号と紋は、長い間歴史を受け継いでいく大切なシンボルであり続けているのです。

 

農民の家紋

江戸時代に家紋が全盛期をむかえる中では、商人や職人ではない農民の間でも家紋が広がっていきました。特に比較的大きな農家である豪農等は自家のアイデンティティを示すものとして家紋を使用していた記録が残っています。農民の家紋は職人・商人に比べて目的が希薄だったため、装飾の意味合いが強かったといわれています。

 

家紋のデザインにも流行があった

江戸時代も五代将軍綱吉の元禄年間(1688~1704年)になると、幕府の政治・経済が安定し始めます。それによって町人の暮らしぶりもよくなり、町人文化や上方文化が開花しました。歌舞伎や浄瑠璃、狂言といった現代で言うところの伝統芸能が盛んになり、役者や花街の芸者衆が競うようにオリジナルの家紋を付けます。それが浮世絵などで拡散すると、瞬く間に町人の間で大流行したそうです。

武家の家紋にしても、いわゆる「伊達紋」と言われる花鳥、山水、文字などを図案化して作った紋や、「加賀紋」と言われる彩色した紋で草花などを図案風に描いた、派手な紋が使われ始めたのもこの頃で、遊女や芸姑も紋を持っていたといわれています。江戸時代で家紋はもはや、名字の目印といった性質や威厳を象徴する意味合いは薄れ、装飾用として意味合いが強くなっていったのです。

 

庶民の家でも家紋が受け継がれていく

最初はファッション感覚で好きな役者や、武家の家紋をアレンジして使用していた庶民は、やがて武家に倣って「家の紋」として次の世代に受け継ぐようになっていきます。識字率が現代ほど高くなかった江戸時代にあっては、自分のアイデンティティを視覚的に確認できる家紋の存在は、苗字が公称できない庶民にとって今以上に貴重なものだったはずです。

 

次回は「家紋」についての最終回で明治時代についてお話します。お楽しみに!

 

貼り付け元  <https://ka-ju.co.jp/column/origin_of_family_crest>

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